モーツワルトは、お好き? 2月17日(金)
夫が還らぬ人となったあと、わたしは独り、猫と暮らしてきた。
今日、あれから三年経ってしまったのだと、なんだか忘れ物をしたような朝を迎えたわたしは、何気にパソコンを開いた。それは夫が使っていたもので少し古くなっていた。が、時々メールをやり取りする友人がいたので、書斎のテーブルに置いたままだったのだ。用があれば電話で済むのだが、弓削美紀はたまにメールでわたしに田舎暮らしの状況を知らせて来た。それに、もう一人三海野、彼は自称詩人であったので、時にお疲れさまと言いたくなるような、散文か詩歌の類を送って来ていた。
久しぶりにというか、二週間ほどメールをチェックしていなかったので、何も考えずにアウトルックを開いた。ばらばらと余計なメールが立ち上ったので、ほとんどを迷惑メールに移したが、自称詩人から三通が届いていた。
全く懲りない人だね、また、やわな詩篇かしらね。
わたしはソファーに寝そべる猫にぼやいてメールを開いたが、一瞬で首筋から冷えた。
「モーッワルトは、好きですか?」 と書かれていたのだ。それを見た時、わたしの首筋から背中へ急に冷水が流れて行くように思えた。それは、長年忘れていた台詞だった。正確には、三年前に心臓麻痺で他界した夫が、わたしにプロポーズした時の言葉だったのだ。高校時代のわたしの秘密の言葉だった。
なぜ、三海野はわたしの秘密を知っているのか。
わたしが不用意に彼に喋ったりしたのだろうか。それとも、美紀が話のついでに口を滑らせたのだろうか。わたしには三海野にそれを話した覚えはなかった。確かに彼は高校時代からの友人ではあったが、親しい知人の域を越えたことはなかった。
突然、つむじ風に襲われたように放心状態になって、わたしは猫と朝のうちをソファーで過ごした。
午後には美紀に電話をして、それとなく聞いてみた。
「ねえ、あなた、モーッワルトは好きですか、って覚えてる?」
「え、なによ、それ?」
美紀の声色は憮然として、何事かといぶかしがっていた。少し説明すると、思い出したらしく、
「ああ、あなた、別に興味なかったって言ってたわね。それで、コンサートの帰りに焼肉食べたって」
と、わたしが忘れていることを思い出して、美紀は勝手に笑っていた。
三海野のメールのことは言い出せなかったが、美紀は三海野という男のことを忘れていた。
「そんな人、クラスにいた? そんな昔のこと思い出して、どうしたの。あなた、結構ダンナが重荷だって言ってたじゃないの? モーツワルトなんて。まあ、いいけどね」
美紀に説明する気も失せて、わたしは午後もぼんやりしていた。
そして、三海野のメールの二通目をひらいてみた。そこには、「僕が彼女を殺したかも知れない」とあった。彼女とは誰! またしても仰天して、わたしは三通目を開けた。
「君が波留人を殺した」と書かれていた。波留人は夫の幼名だった。夫は十八歳になって「隆」と改名していた。
数十年来の親しい知人であり続けた三海野からの突然のメールなのである。三通目を見た時、これはいたずらだと思えて来た。なあんだ、こんな悪ふざけもあるんだと、庭に目をやると珍しく粉雪がちらついていた。立春は過ぎたのになごり雪かと、草に降りては消えてゆく雪を見ていた。そのためかも知れないが、背中の冷えは止まらなかった。
悪ふざけを確かめようと、わたしはメール送信者のアドレスを確かめてみた。しかし、一字も違わず三海野のものだった。ほんとうに彼なら悪ふざけは考えられないから、愕然とした。
モーッワルトは好きですか? なんて会話は、日常にはない。わたしが知っているのは、過去のある瞬間なのだ。他にもそんなやり取りがあったとしても、わたしが覚えているのは、一度だけなのだ。
今、わたしは不安と疑問の間に身動きできずにいる。だが、わたしに投げられた石でわたしは潰れるわけにはいかない。今日から、わたしは散らばった過去をジグソーパズルのようにはめ込んで、この悪夢と悪戯から解放されたいと思う。