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絵本ぶろぐ

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2月19日

2月19日(日)
 昨日、わたしは三海野にメールを返信した。寝不足だったのでコーヒーを挽いてゆっくり朝を過ごしてから、不快なメールを断ることを短く書いて送った。それから、車に猫を乗せてドライブに出かけた。
 単に海が見たかったし、何も考えない時間が欲しかった。何かを思い出すには、現在から少し離れよう、少し考えない時間を造ろうと思った。国道を三時間ほど走ると、その海が見えて来る。その海は松林の奥にあり、降り積もった松葉で林は赤く深いベンガラ色に染まり、何時でも松の香りが漂っているはずだった。その香りに包まれて海を見たいと思ったのだ。
 わたしは松林の入り口に車を止め、ネコを置いて林に入った。松林の中は穏やかな清々しい香りに満ちていた。しかし、海はブッシュで見えなかった。あれ、松原から海が見えないんだ。松林から海を見たという記憶は、わたしの思い違いだったなんて。海風が砂を吹きあげ、段丘を成していたのだ。松林から緩やかに登り坂になっていて、目の高さに砂が盛り上がり海は見えない。段丘のブッシュを過ぎると視界が一度に開け海が見える。わたしはその風景を忘れていた。
 松原から海岸に出た時、戦慄が走りわたしは小さく身震いした。
 なぜ海を見たいと思ったのだろう。わたしには思い出したいことがあて、その為に此処に来たのだろうか。
 わたしは大事なことを忘れているかもしれない。わたしの記憶に海岸と松林の境目のブッシュはなかった。風に乱れた頑強なブッシュを見るまで、それを思い出さなかった。そして、視界が一度に開けて海を見た時、わたしははっきりと思い出した。文芸クラブの顧問だった担任が生徒を連れてこの海岸に来たことがあったことを。その時、斐川もついて来ていた。担任の女性と親しかったのだろうと、友人たちは噂していた。
「君は何故あの曲を弾けるんだ?」
後ろから声がしたので振り返ると、斐川だった。友人たちは砂の丘から海に向かって一斉に走りだしていたので、周りには誰もいなかった。
風が強くて耳元でかさかさとなり、斐川のコートが翻る音がしていた。
「え、何のことですか」
わたしは斐川隆を「先生」と呼んでいた。それ以上の関係はなかった。その斐川から急に「あの曲」と言われて、一瞬戸惑った。そして、音楽室でピアノを弾いているささやかな行為をとがめられたような気がして緊張してしまった。何も答えられないまま、わたしは海岸に走って友人たちに合流した。
どのくらい遊んだのだろうか。そろそろ帰るというのでのろのろ松林に戻った。ブッシュを過ぎた時、海の音が一瞬で消えたような気がした。耳が解放されたような、別な世界に入ったような感じだった。
「君は、あの曲をなぜ知っているんだい」
再び、斐川がわたしに聞いた。海鳴りも消え風も止んでいたので、斐川の小さな声がよく聞こえた。
松の香りがしていた。人間世界に戻ったような穏やかさで斐川がわたしに同じ質問をしてきたこと。
後になって、わたしが斐川と結婚したのは、「あの曲」と言った彼の声がわたしを引き付けていたからだと、今になって気が付いた。
松林を抜けて海を見た時、空気の音が変わる。海岸と松林の境目で、一瞬にして世界が変わることを、わたしは昨日思い出した。わたしは音を覚えているのだ。それは、わたしにとって恐怖というしかない。




by cgwxpmasaco | 2017-02-20 01:14 | モーツワルトはお好き?

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